一方、中国電力では、それよりもかなり珍しい継柱(上部をさらに木柱で継ぎ足した)仕様の木製電柱も発見しているが、これは東電以外のものであるから、別に用意したぺージで見てゆく。
撮影地:東京都足立区
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↑廃止後も長らく、電話線(電信線)の支持用として活躍していた。
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今はなき、花畑変電所横の木の電信柱
有名の詩人、宮沢賢治さんは、この世代頃の電信柱に興味があったようだ。
「雨にも負けず!」というのは、正にこれのことであろう。
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撮影地:埼玉県八潮市鶴ケ曽根
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こちらは完全に忘れ去られており、後は時間が流れるのを待つのみ。
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水田の中にわざとらしく取り残された木の電信柱
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撮影地:山梨県西八代郡市川三郷町
目立つためか、結構有名なようで、この廃通信柱を特集するブログが外部のサイトで何件か見つかった。
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通信ねじ切りがいしカップびっしりの通信柱 その1
こちらは、JR身延線の芦川駅前にて発見!(大昔はJR(国鉄)の所有ではなかったらしい。)
使われていないのに除却されずに残っているのは、かなり珍しい。
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↑国鉄の線路わきの方が、通信がいしの数が物凄い。
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おっと、残っているのは芦川駅前の1本だけではない。
もう1本みっけた!(電車に乗っている時に偶然見えた。)
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通信ねじ切りがいしカップびっしりの通信柱 その2
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通信ねじ切りがいしカップびっしりの通信柱 その3
一方、JR東海道本線(湘南新宿ライン・上野東京ライン)の根府川駅より少し南下した場所でも、廃止された通信柱をいくつか発見!
こちらは歴史がありそうだ。
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長いこと、塩害の風雨にさらされながら残り続ける廃止された通信柱
一応両サイドには支線も残っているが、横から見ると結構傾いている。
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これはかつての大正11年(1922年)開通の国有鉄道熱海線区間(現在でいうJR東海道本線の小田原〜早川〜根府川〜真鶴間)での発見となった。
(大昔は、熱海から函南までの山を越えられなかったから、かつての東海道本線は、現在の御殿場線ルートを通っていた。)
しかしこの通信柱は、がいしの製造年を確認してみたところ、その大正11年(1922年)当時に普及していたものではないようだ。
なんでも通信ねじ切り2重がいしカップの製造年が最古のもので1927年(昭和2年)製を確認しているからだ。
1927年(昭和2年)1月発行の工事画報・工事タイムズによると、(大正12年(1923年)の関東大震災で被災した)東海道線・熱海線の復興工事を1927年(昭和2年)一杯で完了するとある。
通信ねじ切り2重がいしカップについては、恐らくその復興時のものなのかと思われた。
なおその後しばらくは、現在ある東海道本線が熱海線時代に使用していた旧線(長坂山隧道、八本松隧道、赤沢隧道)を通っていたようである。
唯、その旧線については、昭和47年(1972年)に真鶴隧道が開通してからは、廃止となったようだ。
旧線は強度的な問題で廃止となったらしい。
それにしても、この通信柱に出会うまでは、そのような旧線や歴史があったことは、全く知らなかった。
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この帯びたたしい数の白の磁器がいしは、唯のがいしではない。ちゃんと名前がある。
「通信ねじ切り2重がいしカップ」というがいしである。
なおここでは、1927年製の通信2重がいしカップを発見した!
がいしの製造メーカーについては、松風工業製、日本ガイシ製、那須電機鉄工製などが揃っていた。
そのうち那須電機鉄工製のものでは、1950年代製造のものを確認しているから、恐らく木製通信柱はその時代に一度更新されたのかと思われた。
100年近く持つ木柱なんて実在するだろうか?
他にも何本か発見しているが、畑などの私有地にあるので、近くに寄ることができない。
道路から近距離で撮れるのは、先ほどのものと以下のわずか2箇所のみである。
それにしても、ここまでの通信がいしがあると、昔の絵葉書を連想させる。
↑ギリ道路から撮れる2箇所目
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