電気の史料館にて
写真撮影時期:2008年8月
記事の執筆時期:2018年8月
撮影を終えて10年経った今でも臨時閉館中であるので、10年経った今に掲載に至った。
東京電力運営の電気史料館の内部には、他にも貴重な展示が多数あるが、中には各時代背景ごとの配電柱の展示もあり、私は真っ先にそのコーナーが気になった。w
(まぁこの中には、もう既に、私のコレクションとしてでも所持しつつある貴重ながいしの展示もあるがのう。w)
ここでは3歳で電力会社の配電柱に魅了された者として、詳しく展示物を紹介しよう。w
ということで、まずはざっと解説していく。w
ここで見えてきたのは、まず一番左側に、東京電燈が電灯を灯し始めた明治20年代頃の配電柱であろう。
次いでその中央には、昭和初期の配電柱であろう。
右側には、昭和中期の配電柱であろう。
そして最後に、昭和の終わりから平成初期にかけての配電柱の展示といった感じである。
しかし今や平成30年となり、平成も終わろうとし元号が変わろうとしている近代では、さらに配電柱の形は変化しつつある。
近年は、変圧器の土台(変台)を省略したものが主流になりつつある。
(具体的に言えば、平成24年辺りから形が多少変わった。特に近代では、普通の横幅1800mmの水平式高圧用腕金を使うよりも、D型腕金やそれよりも長い離隔腕金も使う傾向にあるのだから、今後は新元号に向けた新しい展示も用意するべきである。)
なお、トランスについてもちゃんと、各時代背景ごとに展示があるのだから、思わず驚いた。(昭和中期のトランスのPCB処理は大丈夫か?浸透してたりしてないか?)
私の説明はこれだけでは終わらない
さて、それでは各時代ごとにある配電柱をじっくりと見ていこう!
明治期
時は明治
電線の本数が半端ない
通信線も入り混じってないかい?
まずはこちら!明治時代の配電柱だ。
わけのわからない程、電線の本数が多いが、、一応上部の大多数の電線は高圧線かと思う。
次いでその下には低圧線があるわけですわな
一応、高圧線から変圧器への引き下げ線を取り出しているのも見えます。
一方、各電線を支えているがいしについては、上部の電線びっしりと並んだ箇所で支持しているのは、高圧3重がいしかと思われる。
これは電話等の通信線類支持の弱電支持のがいしとは違い、れっきとした強電線支持がいしとなっている。
当初の通信線支持の弱い電流、電圧を支持するものであれば、あまり当時はがいしの塩害事故などは意識しなかったのであろうが
強い電気の支持となると、こりゃまたがいしもいかんせん強化が必要だったりで、昔の先人達は色々と困難を乗り越えてきたのだそうだ。
なお、写真の右手前にある展示物については、赤ーく塗られているので、恐らく配電電圧3300Vの高圧配電線が登場した頃に使われていた高圧3重がいし(高圧ピンがいし登場前の基本的な高圧がいし)であろうかと思われる。
その展示物は見ると、後ろ側が欠けているのがわかる。
一方、高圧の下に少なからず並んだ3本ずつの線を支持したものもあるが、ここではまだ低圧ピンがいしらしき低圧がいしは確認できない。
そこでは、現代では全く聞き慣れない、かぶと(兜)がいしなるものを使っているのが見て取れる。
かぶとの由来については、その名と通り、カブトムシに見えることからそのような名があるのかと思われる。
(それにしても昔の電柱は電線が整理されておらんから、よくわからんw<)
一方、そのかぶとがいしなる実物の展示物が手前側に見えるのがわかる。
そのがいしのメーカーのロゴは見てみると、旧ロゴで日本ガイシ製となっていた。(さすがは日本ガイシ!)
続いて、その上の展示物については半分欠けてしまっているが、当時の高圧3重がいしであろう。
全体が赤塗となっている。
これについては、高圧ピンがいし登場前に高圧配電線の引き通しとして使っていた。
展示物の名称には「高圧ピンがいし」と書かれているが、これは高圧ピンがいしではない。高圧3重がいしである!
これも今や入手し難い。
続いてその下は、低圧2重がいしだ。
(この時、磁器部分を回転させてボルトから取り外しできれば、それは通信ねじ切りがいしカップである。)
これは低圧ピンがいし登場前に低圧配電線の引き通しに使っていた。
一方その下のこちらは、当時の柱上トランスであろう。
なお、日本で絶縁油にPCBを使い始めたのは1950年代からであるから、これは大丈夫。
(国内では戦前のトランスにはPCBを使っていません。だから〜家もね〜展示用としてね〜欲しいんだとしたらね〜戦前のトランスが欲しい。w)
ここに並ぶダルマスイッチは、本当に戦前製か?把手ががっちりし過ぎてないか
大正〜昭和初期
続いてこちらは、じいちゃんばあちゃん世代の昭和初期の配電柱である。
この辺から上から順に、高圧、低圧の順で電線を整理し始めたので、大分電線が整理された。今に近い原型と言えよう形となっている。
そしてここにも何やら手前には展示物がある。
名称を示せば、まずその上に、当時物の高圧がいしであることを示す赤い線引きが2本ある高圧茶台がいし
その下にはがいし型開閉器なるダルマスイッチがある。
で、二の次に低圧がいしがあるわけだが、ここではまだ低圧ピンがいしは登場していない年代なので、その手前には低圧2重がいしの展示がまたもやある。
その奥には低圧引き留めがいしがうかがえるが、この当時はまだ形がしっかりとした低圧引き留めがいしは登場していないはずである。茶台がいしのはずだ。
なお、この時代の柱上トランスはこんな感じである。
20kVAにしては、現代のものと比較してみると、かなり大型である。
着色については、昭和40年に入る前までは黒塗りが主流だ。
昭和中期
続いてこちらは、父ちゃん母ちゃん世代の昭和中期の配電柱の展示である。
この辺からはこの設備に見覚えのある方も多いことであろう。w
電線がかなり整理されてきた。
何でも整理されたのは低圧線であり、動力線は水平配列で電灯線は垂直配列となった。
よって、形としては、なんだか今でもありそうな形だ。
年式については、なんだか、昭和20年代〜昭和30年代を思わす木柱となっていた。
  柱上トランスからの低圧立ち上がり線については、今のような黒いホースのようなものはなく、そのまま立ち上がり線として各ある低圧線に接続されているのがわかる。
なお、今大いに普及している鉄筋コンクリート柱が大量に登場し始めたのは、昭和40年代からである。
そして、がいし型開閉器については、これより茶色から白色に着色が変更された。
今の高圧カットアウトは変圧器の直前に設置されるが、この時代は上部にダルマスイッチを取り付けていた。
(まぁ中には現在でも、それを真似るかのように、高圧カットアウトを上部に設置したものもあるがにゃw)
写真右側の低圧引き留めがいしが固定されている三角形の形のようなものは、かつての低圧配電線の分岐箇所で用いられていた金具であろう。↑
ちなみに私は、外の配電柱ではその金具を実際に目にしたことはない。
なお、ここには白色のがいし型開閉器の展示はない。
もしもそれの実物を見るのならば、静岡の裾野市立富士山資料館がお勧めである。
そこでは何故か富士山資料館のはずなのに、電気コーナーが一部存在し、白色のがいし型開閉器の展示があるのだ。
ちなみにがいし型開閉器には、茶色や白色以外にグレーも存在するので、お忘れなく!
(それは日本ガイシさんが製造されていました。)
続いてトランスを!高岳製の10kVAかな。(今は東光高岳に社名が変更されている。)
しかしこの辺のトランス、PCBは大丈夫?
なお、トランスのブッシングついては、主に電気工事作業員が安全にリード線の着脱作業を行えるよう
この時代より、高圧1次側にがっちりとしたスタッド型ブッシング(ブッシングの先にある赤い丸みを帯びたものがあるもの)を採用したものが登場した。
(↑詳細については、「これでわかった送電配電」の本に書かれておる。)
だが、今は東電管内では廃止となり、見かけることはない。最近では山梨で見たことはあったが、撮影に行く前になくなった。
なお、地方の電力会社では、それを採用しているところがまだあるところはある。
昭和後期〜平成初期
続いてこちらは、私が生まれた頃の平成初期頃の配電柱である。w
生まれた頃はまだあちこちにこういう設備が大量にあったことを覚えている。
そう、架空地線の廃止がまだ相次いでいない平成初期頃のことである。w
架空地線自体については、昭和40年代には既に登場しているが、その当時はまだ専用の架空地線キャップがなく、腕金による支持が主流であった。
昭和50年代頃より架空地線キャップが登場し、がいしもクランプがいしとなったのは昭和が終わりを迎えていた頃であった。
次いで高圧用腕金も、この時代から1500mmから1800mmへと幅が広がった。
これは電気工事作業員が作業しやすいように広げたのであった。
がいしの展示については、ここにはクランプがいしの展示はなく、一世代古いものが展示されていた。
上から見ていくと、海岸エリアや海から30キロ離れた地域でも変圧器への引き下げ線などで使われている耐塩ピンがいし
その下に年季のある古そうな避雷器
さらにその下に低圧ピンがいしといった感じである。
まぁこの時代のがいし解説を全てご覧になりたいのであれば、こちらをご覧あれ!w(←解説が少なすぎるので全部まとめましたよ)

製造年は新しい、2000年製であった。
ちなみにこの種の耐塩ピンがいしは昭和47年(1967年)に登場した模様

その中の耐塩ピンがいしについては、普通の高圧ピンがいしとは違い、深溝構造となっているかつ、充電部と接地部との距離(表面漏れ距離)が長いため、塩の多い塩害地域で活躍する。
年季ある避雷器は大分古そうだ。
避雷器は配電線の分岐箇所や柱上トランスの設置箇所に重点的に設置し、雷害によってトランスや開閉器を焼かぬよう、取り付けていた。
ちなみに避雷器は1個6万もする高額製品なので、それをすべての配電柱に設置しようということはできなかった。
3つつければ20万近い金額である。
続いて柱上トランスについては、昭和40年頃からグレーになった。
それと同時に、スタッド型ブッシングの採用は取りやめた。
なお、トランスの製造年はブッシングに書いてある。
1993年(平成5年)製のようです。
この展示物だけは新品を購入し、すぐにそこに置いたのか真新しい。
(わしにも一台おくれw)
平成中期〜平成後期

低圧配電線よりも下に変圧器がある従来での新基本形の例

低圧配電線よりも上部に変圧器がある新基本形の例
唯、この当時の低圧配電線の間隔は、まだ従来の間隔

同じく低圧配電線よりも上部に変圧器を取り付けた新基本形となるが
2020年頃からは、低圧配電線の間隔を狭く張ったものが登場している。
このことから、今後は低圧配電線よりも上部に変圧器を取り付けるこれが基本になりつつある。
また、近年では、架空地線を張るのはとりやめているようで、架空地線キャップの代わりにアームタイを取り付けたものが新設で増えている。
細かい説明を既に付け加えているが、次は展示物ならぬ!実物です。
平成20年代後半からは、また配電柱の形が少しずつ変わっているのであるのだから、ここで追加として説明しておこう!
配電柱上部の基本形であるが、平成26年からこう形が進化した!
なんでも変圧器への引き下げ方がより簡素な作りにとなった。これによって、上部のトンボ腕金は不要となった。
また、変圧器の設置方法に関しても、平成13年頃から土台不要のものが主流となった。
そして現代では、変圧器の設置位置も、低圧配電線よりも上というのが基本のようだ。
おまけ
ここからはマニアックな、その他の展示物を紹介していこう。
配電用高圧がいしの展示については、他にはあの耐塩皿がいしやクランプがいし、レアな透明な避雷器の展示もある。
まずは耐塩皿がいしより!
耐塩皿自体の製造年は見えなかったが、中身のピンがいしは1986年製と比較的遅いものであった。
続いてこちらは、クランプがいしと避雷器
こちらは中でも避雷器の方が大分製造年が古く、レトロな筆記体の東芝製で、アレスタ自体はレアな透明なタイプとなっていた。
なお、透明のアレスタについては、外でも実際に目にしたことがある。但し、1本のみw
他には〜↓
中央の写真にて、柱上の高圧用腕金に耐塩皿がいしを等間隔で3:0に並べた槍出(やり出し)装柱による耐塩皿がいし引き通しが写った工事風景写真と
その右奥には、スタッド型ブッシングでない旧型の黒塗りのトランスの展示がもう1台あった!
だが、写真撮影時は夢中になりすぎて、そのトランスの近距離撮影は忘れてしまった。w
他には、柱上開閉器の展示と共に、配電自動化システムの時限式事故探査方式を含んだ詳しい説明も
↑ところで、この装柱は見たことがないな〜
古い時代に流行っていた装柱なのだろうか
配電線の展示物で見どころありそうなのは、ざっとこんな感じだろうか
その他、送電線の展示物としては、鬼怒川線のバンザイ鉄塔の実物の展示もある!
その前に、「鬼怒川線って何?」と疑問を感じる方もいらっしゃることだろうから、以下に私の説明も付け加えた。
鬼怒川線とは何か、ご覧の通り、現在にはない特殊な送電線の配列で、かつ人間がバンザイしているかのように見えるから、バンザイ鉄塔とも呼ばれていた送電塔である。
送電路名は鬼怒川線という送電電圧6万6千ボルトの架空送電線路であり、明治44年(1911年)に当時実在していた鬼怒川水力電気會社が建設した。
始点は栃木県の鬼怒川温泉の下滝水水力発電所であり、そこから東京の尾久変電所までを結んでいた。
ちなみにこの送電線は、現在の東京都足立区の舎人公園に当たる地域のすぐ東側も通っていたようであり、その様子をgooで公開の昭和22年当時の航空写真で見ることができる。
ちなみに今はその場所には、東尾久線という別の66kVの送電線が通っている。
なお、鬼怒川線の電源については、主に当時実在の東京市電の電源用として使っていたようである。
(「配電教室 昭和33年9月20日 初版発行 前川幸一郎著」の文献の106ページを拝読してみてもわかるが、昔は東京電燈以外に、東京市(東京都になる前の大昔)なる市の電気局も実在していた。
それで意外にも、関東大震災発生時は、地中線路が多かった東京市の電気局の配電線の方が無事であったと書かれている。
東京電燈の配電線は火災により多くが焼失し、復旧が遅れたのだそうだ。)
鉄塔には、当時物と思わしき60号特別高圧ピンがいしまで付いていた。
一方、その後ろ側には、箱根水力會社建設の明治34年(1901年)建設の日本初の鉄塔と思わしきものも並んでいた。
こちらは腕金が水平配列である。
電線路名は塔ノ沢線といい、箱根〜横浜間を結んでいたようである。なお、送電電圧は4万5千ボルトで特別高圧ピンがいしも国産のものを初めて採用していたようだ。
ただこちらも今は別の送電線に置き換えられているようであり、現存はしていない模様
なお、東京文映(株)の「映像科学館」の映像によれば、昭和45年頃まではまだ現存していたように見られる。
場所的には、箱根湯本駅のすぐ北側にある山中に鉄塔はあったようである。
当時はアメリカの技師が鉄塔建設を指導の元、建設をされたようである。
一方、今となっては貴重といえよう、特別高圧ピンがいしの展示も近距離で見ることができた。それもベース金具付きである!
左は、「風 KYOTO」と書かれた松風製(明治期の早い段階で高圧がいしの製造に手がけた企業であるが、今はがいしの製造はされていない模様)、右は日本ガイシ製で、いずれとも特別高圧ピンがいしの40号のようだ。
他には、日本碍子博物館を含んだほかの博物館や史料館では、恐らく目にすることはないであろう、初期型のスモッグがいしの展示も!
初期のスモッグは浅いですね
今じゃ入手すらできないでしょう。
そういや、上信線で使っているガラスがいしも、撤去された後、ここに展示されたらどうですか?
湿度が高い日本では、あまり使用されなかった珍しいものとして!
そして勿論、建設当初は世界第3位を誇った猪苗代送電線(多分、猪苗代旧幹線の方であろう)のがいしの展示も!
これは落ちている可能性がある。w
なお、展示には、当時の猪苗代水力電気會社時代のプレートまである。
アメリカ産のトーマス社製造の懸垂がいしもあるかい?
当時の送電線の展示も
緑色になっているのは、緑青により銅が錆びている証だと思われる。
はて、ヤワタ(YAWATA)の部材を使っているのは黒部幹線だったっけか?

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