1962年頃の配電柱とその再現
このページでは、東京都足立区にて、1962年(昭和37年)頃に撮影されたと思われる配電柱を掲載する。
※途中に登場するがいし類は全て購入品
(2021年再編集)
父親に聞いた話なのだが、当時はまだ足立区も田舎で、今のように住宅やマンションが大量にあったわけではなく、道路もまだ完全に舗装されているわけではなかったようだ。
また、当時の配電柱にはまだ街灯もなく、池や水田なども数多く存在していたようで、夜になるとカエルの合唱まで聞こえていたようだ。
それにしても都内はやはり鉄筋コンクリート柱化が早かったのだろう、田舎と言えども既に1962年頃には鉄筋コンクリート柱化が完了しているようだった。
まずは1962年頃に撮影された配電柱全景が写った写真をそれぞれ左側よりA、B、C、Dと置いてみる。


配電柱A,Bについて、現在の写真と比較すると以下のようになった。
 
並んでいる配電柱については、一度全部一斉移設が行われたようだ。
↑1978年を示す鉄筋コンクリート柱の銘板
比較してみるとあまり位置的には配電柱の位置は変わっていないように見えるが、右写真中央を見ると1本分岐用に増えているかのように思える。
なお、原型(昔の形と古い高圧がいし)そのものは、もちろん老朽化などで新しいものに交換されているため、現存はしていない。
そして、鉄筋コンクリート柱についてももう1962年当時の物は現存していないようだった。
どうやら1978年頃に、全て一斉移設されたようだ。
しかし鉄筋コンクリート柱に関しては半永久的とも言われており、中には半世紀が経過した今でも引き続き使用している箇所もある。
大田区や神奈川県では、半世紀が経過した今でも当時の原型を維持し続けたものもある。
これはどうやら地域ごとに設備の更新時期が大幅に違っていたようである。
東京都足立区に限っては、どうやら比較的設備の更新時期が早かったようである。
まぁ50年近く経てば格好も変わるものである。
配電柱Aの上部拡大写真
奇跡的に配電柱Aの上部をとらえた写真も見つかった。これはまた中々当時の歴史を知ることができるから嬉しかった。
さて、それでは最上部から見ていこう。
配電線の上部には、雷から下を通る配電線類を守るために架空地線(避雷線)というものが張られるが、この当時はまだそれはなかったようだ。
配電線の架空地線については、この辺では1978年頃に施設されたようで、その後は1990年代後半頃まで張られていたのを記憶している。
配電線の架空地線については、近年は施設されないことが多いが(雷多発地域は除く)、配電柱自体の最上部に関しては引き続き腕金や架空地線キャップを取り付けて避雷針の代用として活用している。
次に高圧配電線の引き通しをしている高圧がいしに注目してみる。
これは何やらお茶碗のようながいしが見えることから耐塩皿がいしかと思われる。
耐塩皿がいしというのは、普通は海沿いの地域、もしくは海に近い地域で使われるが、当時はどうやら海から10キロ以上離れた足立区でも
耐塩皿がいしの使用が目立っていたようである。
なお、当時は耐塩皿がいしに限らず、高圧耐張がいしについてもどうやら塩害対策を施した謎の取り付けも目立っていた。
(その謎めいた取り付け方を施した高圧耐張がいしについては、こちらで紹介している。これについては他に葛飾区でも確認している。)
どうやら当時は、季節風や台風によって遠方から運ばれてくる塩分を含んだ風対策として、高圧ピンがいし、耐塩高圧ピンがいしに耐塩皿を追加していたようである。
なお、足立区については、高圧ピンがいしに耐塩皿を追加した構成が多かったようだ。
その耐塩皿がいしも現在ではこういう場面でしか見られなくなってしまった。
東京電力管内の塩害地区では絶滅危惧種指定!
東京都大田区、品川区、墨田区、江戸川区、神奈川県鎌倉市などでは、いまだに現役で使われる耐塩皿がいしを見たことがあるが(ジャンパー線支持用)
足立区の耐塩皿がいしについては、既にその用途での使用は見つからず、変圧器への高圧引き下げ線の支持用ぐらいである。(2012年現在)
ここではその用途で取り付けられた耐塩皿がいしもおまけとして掲載する。
ここでは古い変圧器の取り付け方を適用したものでそれを確認したのだった。(これをハンガー装柱という。)
他に同区で確認できた耐塩皿がいしは、東京電力の配電線から外れた自家用配電設備(工場の構内用配電線)ぐらいである。
なお、引き通しの耐塩皿がいしについてはクランプがいしへの交換が完了しており、1980年(昭和55年)頃から急速に数を減らした。
(唯、遠く離れた離島などでは、今も耐塩皿がいしの二の次に珍しい10号中実がいしの引き通しもあるようだ。)
アームタイの位置、それから使われている高圧用腕金の長さも今とは違うようだった。
 
次に高圧用腕金の長さとそれを支えているアームタイの位置などを現代の同種と比較してみるが、これまたそれぞれサイズや取り付け位置が違っているようだった。
上記写真に表記した通り、昔の高圧用腕金の長さは1500mmが主流のようだったが、昭和45年前後からは柱上での作業効率を上げるため、今は1800mmの使用が主流だ。
(高圧配電線の間隔を広げることでがいしの交換作業などを行いやすくしたのだろう。)
しかしこれまた細かく、千葉県や山梨県では引き続き1500mmを使用しているエリアもある。
引き留めや両引き留めの腕金に関しても埼玉では一時期1500mmの新設も確認できた。(2008年頃)
東京都や神奈川では廃止されている。
配電柱Aの再現
模型での再現はこんな感じとなった。
配電柱B
次にアルバムの切れ端にぎりぎり写っていた配電柱Bを見ていく。
ここでは変圧器が2台取り付けられているようだった。
これは付近の小さめの工場向けに施設されたであろう三相3線式200V(3本の電線を使って200Vの電気を送り込む)の動力用変圧器であろう。
次いで変圧器の容量は10kVAぐらいだろうか
父親の話によると足立区は準工業地域指定であるから当時は工場も結構多かった。
しかし平成の終わり頃には、多くの工場はなくなっている。
さらに令和に入ってコロナ禍になると近所の工場は全て廃業した。
次に配電柱Bの高圧がいしに注目してみるが、これは変わらず耐塩皿がいしのようだった。
種類については同じく、高圧ピンがいしに耐塩皿を追加したタイプの耐塩皿がいしかと思われた。
配電柱Bの再現
 
配電柱Bの再現はこんな感じとなった。
当時の高圧カットアウトは円筒形ではなく箱型が主流だった。
配電柱Cと現在の比較
 
次にやや正面寄りをとらえた配電柱Cを見ていく。
こちらも変圧器が2台あるようだったが、右側が黒塗りのようで特に古そうだった。
こうした変圧器も昭和40年頃には色がグレーで放熱板付きのものが普及していったが、昭和30年頃まではまだそれよりも相当古い黒塗りの変圧器も多かった。
なお、2台ある変圧器への高圧引き下げ線の本数については、通常はこうした場合は3本あることが多いが、ここでは下にある高圧カットアウトの個数も確認してみる限り、それは2本だけしかないように思える。
↑単相変圧器は2台あるが、高圧引き下げ線は2本しかない例
唯、電力会社に施設される配電用変圧器の高圧側のブッシング(1次側)は、各2つずつと決まっているので、その高圧カットアウトを通過したところで引き下げ線は4本となる。
それから当時の高圧カットアウトについては前項でも触れたが、これまた現状、地方の電力会社で見かける普通の箱型高圧カットアウトではない。
蓋に色が付いた初期規格品となった高圧カットアウトが主流だった。
これは別名プライマリカットアウトとも言われた。
 
製造時期はこの写真が撮影された時期と一致している。
この初期規格品の高圧カットアウトは、今の円筒型高圧カットアウトが登場した1969年(昭和44年)頃までのわずか数年間しか普及しなかった。
配電柱Cの上部拡大写真
高圧配電線引き通しの耐塩皿がいしについて注目していくが、こちらは耐塩皿の中に入っているがいしの背丈が少し高いような気がする。
ここは普通の高圧ピンがいしではなく耐塩高圧ピンがいしを採用したのかもしれない。
なお、この写真については1968年(昭和48年)頃に撮影されたようである。
耐塩高圧ピンがいしの普及時期は電気の史料館によれば1966年(昭和41年)とあるから、大体一致する。
配電柱Cの再現
 
配電柱Cの模型はこんな感じとなった。
配電柱C,Dの全景
配電柱D付近には、高圧ごと引き込んだ大きめの工場があった。
確かその工場も長らくは放置された廃工場となって、しばらく残っていたのを確認しているが
(その当時、構内にはまだ廃止された構内第一号柱も残っていた。)
2007年にようやくそれが取り壊されて、その後は土地が売られて、建売物件が建ったのを覚えている。
配電柱Dは、カーブを振りやすくするため逆を向く
続いて高圧用腕金の向いている方角についてだが、ここではCと比較すると逆を向いて取り付けられているのがわかる。
配電柱Dのある箇所は、道が左へややカーブしているので、それに合わせて高圧配電線もカーブを振りやすくするため、あえてここでは道側ではなく建物側へ向けていたようだ。
なお、高圧用腕金の取り付け向きについては全部一緒で、これは負荷側向きにして取り付けられているのかと思われた。
(Pointその1:引き通しの高圧用腕金については、1980年代頃までは負荷側を表にして取り付けていた。)
配電柱Dの拡大写真と再現
 
高圧引き込み線の分岐を行うには区分開閉器を取り付けるが、どうやらこの当時はまだそれはなかったようだ。
(※2015年からは、高圧引き込み線の区分開閉器の取り付けは省略されている。(東京電力管内)これは引き込み側でPASの取り付けが義務化されたからだ。)
唯ここでは、何やら3つの物体のようなものが確認できるのがわかる。
これは恐らくがいし型開閉器(ダルマスイッチ)かと思われる。
当時の開閉器は中に絶縁油の入った黒塗りの油入開閉器(オイルスイッチ)が主流だったが、電流の少ない区間に限っては、当時は1つずつスイッチを振り分けた小型の開閉器を使うこともあったようである。
(Pointその2:がいし型開閉器は、プライマリカットアウトが普及する昭和40年頃まで、変圧器への保護対策としてよく使われていた。
なお、色の種類については相当古いものであれは茶色、ねずみ色があるが、以降、昭和20年代からは大型の白色が普及していった。)
当時のがいし型開閉器については
 
茶色より白色のものが使われていたものかと推測された。
なお、その白色のがいし型開閉器の写真を上記に記した。
写真右側はスイッチを開放した状態である。
下にある栓(把手)の部分がスイッチの役割を果たす。
高圧耐張がいしの連結部にはやや空間が見られる。
高圧耐張がいしの取り付け方については、冒頭でも少し触れたが、東京都足立区と葛飾区では一風変わった取り付けが目立った。
同区では1965年〜1967年頃製造の古いもので、2連結の内、片方のみを逆付けした高圧耐張がいしを確認している。

↑ここでは実物の高圧耐張がいしを使ってその取り付け例を再現!
これについては、溝の部分を内側にすることで塩分が高圧耐張がいしの内部に詰まらないよう塩害対策をしていたのかと思われる。
しかしその後は黒色のクランプカバーが普及しているせいか、最近ではその取り付けの新設は確認していない。
大きめの工場の構内にある構内第一号柱の拡大
 
ここでは配電柱Dの向かいで確認できた工場の高圧引き込み柱に注目してみる。
先ほど少し触れたが、私が小さい頃にはまだそこには廃工場があって、廃止された引き込み柱も残っていたんだが、当時はまだ電柱撮影には目覚めていなかったので写真はない。
写真が撮れていれば現状の比較もできたんだがなぁ
なお、高圧引き込み線を引き下げているケーブルヘッドは雨覆い(あまおおい)のある古いタイプのものが使われている。
これは3本の絶縁電線を3芯ケーブルに変換するものである。
雨覆いについては、その3芯ケーブルに水が浸入しない構造となっているのだろう。
この種のケーブルヘッドについては、主に内陸部で使用していた。
唯、同区では他に、別物の種類となる屋外終端箱もそれなりに確認している。
比較的軽い塩害地域であれば、雨覆い付きケーブルヘッドの使用もできたのかもしれない。

当時の構内第一号柱は現存していないため、ほぼ形が似たものを掲載!

この写真は足立区の別の場所で撮ったものだ。
同区はやや内陸でもあるから、屋外終端箱に併用するかのように内陸用のケーブルヘッドも使用していたようだ。

現在の配電柱Dとの比較
 
現在の配電柱Dは、工場の跡地だったところが建売物件となったので、その時に柱ごと移設された。
高圧配電線の向く方は昔とは変わって普通に道路側を向いていた。
次いで、高圧配電線の配列も変わって、旧来の鉄筋コンクリート柱を挟んで高圧がいしを2:1に配置させたものではなく3:0へと変わっている。
おまけ
配電柱A以前の写真も見つかったので、ここではそれも合わせて掲載してみた。
ここでは変台(変圧器の土台のこと)部分が確認できた。
高圧配電線の引き通しに関しては耐塩皿がいしの使用が目立っていたが、どうやら横付けされていた変圧器への高圧引き下げ線支持については普通の高圧ピンがいしを使用していたようだ。
これは、横付けの高圧ピンがいしに耐塩皿を追加しても、上から降り注ぐ雨水によるがいしの洗浄効果が期待できないからである。
唯一度だけ、このような例外を見たことあり。w

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